マラソン marathon
昔から、感覚とか、感性とか、ヒラメキとか、そういったものの考え方に重きをおいていたところがあって。
その感覚だけをある意味頼りにしてきた私の場合、自分と波長の合わない人に自分を理解してもらう上で、言葉が足りず誤解されることもままあり。
また、私は霊能力者でも何でもないので、当然外すこともあり。
さらに最近思うのが、その感覚って怠けたり、新たな物事や人との出会いを恐れていると枯渇していく、または固まっていく。老化、退化、衰退していく。
そんなことを思います。この年までこのスタイルで来た以上、それはそれでこだわりたいのです。
でもね。
決してしゃかりきではないんですよ。自分でも本当にそれが好きみたい。ちょっと中毒に
近いかも(笑)。
ちなみに、自己分析して、自分の「キーワード」を考えてみると、短距離、瞬発力、右脳系、狩猟型、感情的、情緒的、楽天的、快楽型(!)などがざっと浮かびました。
それと対照的なコトバを考えると、長距離、持久力、左脳系、農耕型、論理的、悲観的 自虐型(?)といったところでしょうか。
(言葉の対比が間違っているかも。言葉に詳しい方、ご教示ください。)
特に、物理的でありながら、イメージにすごくぴったりくるのが、「短距離/スプリント」と「長距離/マラソン」というコトバ。
長距離が昔から本当に苦手で、学生のときは、「マラソンなんてかっこよくないし。」 「苦しい思いして長い距離走って何が楽しいの?」とかよく思ってました。
(ちなみに代表の川村はトライアスリートですが・・・何でも本人曰く、「今年のホノルルマラソンに出る!」と宣言しておりました。
そういう意味では彼と私は対照的な気もします。 あ、コンフィデンシャルかな?? )
でもね。
最近あることをきっかけに、こんなことを思うようになりました。
「今までの自分って当然意識して創ってきたものだけれど、これからは、人間としての新しいページを創り始めるのも悪くないかも。」と。
今までの人生の中で大事にして、こだわりつづけてきたもの。創りあげてきたもの。
それはもともとの自分の「 コア 」の部分であり、そのスタンスは変えないけれど、自分というキャラクターの 「 別の入り口 」 がもっとあってもいいのかな、と。
ある意味、それを新たに作ることは、手間と、そして根気のいることかもしれません。
でも、それを楽しみながら、あせらず、あきらめず、淡々と創りあげていくことに対して、最近の私は結構前向きかもしれないです。
この「 淡々と創りあげる 」過程こそが、マラソンがキライだった私の、新たなチャレンジのような気がします。再生、といってもいいかもしれません。
私をよく知る人は、「 これ以上好奇心のはけ口を求めてどうするの? 」という方ももちろんいることは分かってますよ。
でもね。
ひたすらひたすらそれを求めていくことって、結構持久力、スタミナいることだとオモイマセンカ???
それがこれから、どういう形で私の人間に表れてくるか、自分でも興味がありますが、その経過は、ここで時にこうやって皆さんに「報告」致します(笑)。
使い古されている感のある「自分探し」というコトバ。
けれどもいくつになってもそれはあって当然だと思うし、そういう人間でありたい。そしてそれを淡々と求め走りぬく 「マラソンランナー」 にもなってみたい最近の欲張りな私なのです。